コラム

反省すれば罪が許されて良いのか

問題の小ささと重要性に反比例するかの如く反響を見せる吉本及び芸人の闇営業問題。

当初やり玉に挙げられていた雨上がり決死隊、宮迫博之であったが正直に、率直に、そしてなにより真摯な対応の謝罪会見が評価された。

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この会見を受け世間の怒りの矛先は吉本興業経営陣に向くこととなり、吉本興業の岡本社長が一連の騒動について緊急記者会見を行った。

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約5時間半にわたるこの吉本会見は日大アメフト部会見に並ぶ大失態と評価され、完全に世間の矛先は吉本興業に移った。

当ブログではこの問題のくだらなさを再三にわたって伝えているが、このくだらない一連の騒動の中で考察するべき案件を見つけたので取り上げたいと思う。

それが今回のタイトル。”反省すれば罪が許されるのか”である。

この問題が炎上する発端は雨上がり決死隊の宮迫博之が反社会勢力のパーティーに事務所を通さない闇営業を行い、金銭を受諾したことについて、虚偽の報告をしたことである。

実際には宮迫氏にギャラは支払われていたのにも関わらず、それを貰っていないと嘘をつき、同パーティに出席した後輩芸人たちにも口裏を合わせるように指示していた。

これらの事実が世間の怒りを買い、当初、闇営業を斡旋したカラテカ入江の解雇処分だけだったはずが参加した芸人全員が無期限の謹慎処分という大事へと発展。

さらには宮迫博之氏のマネジメント契約解除という衝撃的な事態にまで発展した。

そしてこれら一連の騒動に対する説明、謝罪会見が宮迫博之、ロンドンブーツの田村亮氏両名によって行われたのである。

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そしてこの会見を機に宮迫氏への非難の声は一転吉本興業に向くことになる。

大まかに説明すると

  • 当人たちが記者会見を開きたいといったにも関わらず、会社が圧力をかけ会見させなかった。
  • 「お前らテープ回してないやろな」などとパワハラ発言があった。

などである。

そもそもこれらの問題は京都アニメーション放火事件、消費税増税、憲法改正、悪化する日韓問題等、たくさんの問題が山積みの日本にとって至極どうでもいい問題であることは改めて述べておくが、発端は宮迫氏がついた嘘である。

それが会見を機にいつのまにか吉本興業のパワハラ問題にすり替わってしまった。

なぜ宮迫氏への非難は突然止んでしまったのだろうか。世間がどれだけくだらないことで騒いでいたか学習したのだろうか。

いいや、それも違う。結局吉本の問題もくだらないことに変わりはないからである。

ではなぜ宮迫氏への非難は止んだのか。

それは彼らの会見が世間の心を打ったからである。

彼らの会見から彼らが本気で反省し、本気で悪いことをしたという思いが視聴者に伝わった。

それによって怒り心頭に発していた人たちも「まぁ、許してやるか」という気持ちになったのではないか。そう推察している。

一方、それを受けた吉本興業の会見はどうだったか。

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会見に臨んだ岡本社長は問題発言の経緯や意図、責任の所在、取り方について問われると歯切れの悪い回答を連発。お世辞にも良い記者会見とは到底呼べなかった。

歯切れの悪さから受ける印象は事態をうやむやにしようとしている、責任逃れをしている、本当に悪いと思って反省していないのではないか。などである。

これらのことを総合的に考えると

  • 宮迫氏は反省しているので許す
  • 岡本社長は反省していないので許さない

ということになる。

確かに謝っている人、反省している人に対して鞭うつような真似は出来ないというのは人情ではあるが、世間や法がそれで良いのかという疑問も沸く。

例えば司法の舞台でこの問題を考えてみよう。

宮迫氏と岡本会長が結託して誰かを殺害したとする。

彼らには殺人罪が適用されることとなるがその量刑は裁判にて議論されることになる。

その際、よく争われるのが情状酌量の余地があるか。つまり反省しているかどうかである。

十分な反省が見られる場合は情状酌量の余地があると判断され、執行猶予が付いたり減刑されたりする。

だが、反省の色がないと判断された場合や、犯行が悪質すぎる場合などは情状酌量の余地はないと判断され、執行猶予のない実刑判決が下されることになる。

この場合、共犯であるにも関わらず、反省している宮迫氏には執行猶予が付き、岡本社長には実刑が下ることになる。

同じ罪を犯したにも関わらず、反省しているかいないかで罪の重さが変わるのである。

しかし考えて欲しい。我々は彼らが反省しているかどうかではなく反省しているように見えるかどうかによって判断しているのである。

科学的に人間がどの程度反省しているかを測定することは出来ない。したがって反省しているように見えれば反省していると判断し、していないように見えれば反省していないと判断するのである。

だが人に伝達する。つまりコミュニケーションというものは立派な能力である。人によって得意不得意がある。

つまり、本人が十分に反省しているにも関わず、コミュニケーション能力が低いがため、反省が十分に伝わらなかったり、反省していないにもかかわらず、人の同情を買えたりすることがあるわけである。

こんな曖昧な判断基準で人を裁いておきながらよく冤罪がないだのと主張できると感心さえする。

今回の吉本騒動も同様である。

宮迫、田村両氏による会見は好評だったが彼らは芸人、それも手練れである。

ひとたび”スイッチ”を入れれば本心以外の感情などいくらでも引き出せるであろう。

私にも彼らは十分に反省しているように見えた。だが、本当に反省しているかどうかは結局のところ本人たちにしかわからないのである。

そして彼が嘘を付いたという罪は何ら変わりがないにも関わらずまるでそれがなかったかのように扱われている現状に違和感がある。

まったく逆の結果となってしまった岡本社長にも同様のことが言える。

ダウンタウンの松本人志がワイドナショーで”彼は横柄なところがある”、”悪いところが出た”と述べていたが彼を悪人であるとか社長に向いていない等の発言はなかった。

それを聞いて私は、岡本社長には十分な経営能力はあるが、自分の思いを適切に、正確に人に伝えるというコミュニケーション能力の低さが岡本社長の欠点なのだと感じた。

私には岡本社長も十分に反省しているように映った。しどろもどろで歯切れの悪い回答も自身の欠点を意識し、横柄にならぬよう、誤解を与えぬようにと慎重を期したことが裏目に出た。

きっと率直な伝え方をしていれば彼の悪い横柄なところが出てしまい、同じく会見は失敗していただろう。

つまり、彼はコミュニケーションが下手であり、あのような会見で回答するということに向いていないのである。

反省している人間をある程度許すことは良いことだと私は思う。だがそれは人と人との信用の間で行われるべきである。

人が反省しているかどうかを科学的に立証できない以上、司法や契約といった場面で反省いかんを問うべきではない。

この騒動自体は大変バカげているが世間の関心の移り方は日本の責任の問い方の問題点を浮き彫りにしている。

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