被害者の警察官が意識を取り戻し、回復してきたことで拳銃強奪事件の全貌が明らかになってきた。
被害者の証言は強力な証拠になるので起訴されるのは間違いないだろう。
問題は裁判の行方である。
恐らく弁護側は責任能力の有無を争点に犯行当時心神喪失状態であったと主張するか、そもそもに責任能力がないことを訴え、無罪を主張してくると思われる。
しかし犯人は犯行現場の視察を入念に行い、虚偽の110番通報で遅れて出動しようとしていた被害者、古瀬巡査を襲っていることから犯行には計画性があり、心神喪失の状態でないことはもちろん、十分な責任能力があると判断され、有罪判決がくだるだろう。
恐らく、犯人がどれほど黙秘を続けようとも、さらには物的証拠がひとつも見つからなくても有罪である。
それだけ日本において「証言」というものは強力な証拠であるし、精神鑑定というものは意味をなさない。
しかしよく考えて欲しい。
犯人は黙秘を続けているが推察するに今回の事件は拳銃欲しさの犯行である。
彼は拳銃を手に入れたい、使用したいという欲求に突き動かされ綿密な計画を立て、それを実行に移した。
さらに犯人は古賀巡査の左胸など、致命傷になり得る場所を含め、全身7か所を包丁で刺している。
普通の判断能力があればそれだけ包丁で体を刺せば「死に至るかもしれない」という予測は普通にできるはず、また、空き巣などと違い強奪なわけだから証拠も残る。
証拠が残ればいずれ捕まるということも判断できたはずである。
強盗殺人で捕まる可能性が極めて高いなか、つまりは無期懲役、最悪は死刑になる可能性があるなか、彼は拳銃が欲しいという欲求を抑えることが出来なかったのである。
これがまともと言えるだろうか?これに責任能力があると言えるだろうか?
明らかに常軌を逸している。
いわゆるサイコパスと呼ばれる人間がこれに該当するが今回の犯人がサイコパスであろうがなかろうが日本では有罪判決を受けることになる。
だがサイコパスは立派な障害である。足がない人に対し「少しは歩く努力をしてみたらどうだ」などと言おうものなら言った側は袋たたきである。
だがサイコパスに対して「少しは相手の気持ちを考えてみたらどうだ」と言っても誰も文句は言わない。それどころか「よく言った」と称賛の声すら聞かれるかもしれない。
だが言ってることは足がない人に歩く努力をしろと言ってるのと全く変わらない。
彼らは先天的、もしくは後天的にそのような思考をする回路が壊れているのである。
極端な言い方をすれば犬に人に噛みついてはいけない理由をくどくどと説明しているようなものだし、それに対して「あいつはいくら言い聞かせても理解しない」と憤慨しているようなものである。
「悪いことをした」という自覚がない、または反省の色が見えない場合、日本では罪が重くなるが本来は逆である。それだけのことをしたのにも関わらず反省できないのは明らかにおかしい。
従って、本来精神鑑定で被告人がサイコパスであるかどうかを認定するのは非常に重要なことなのであるが善悪の判断が出来ないことは本人の問題としかとらえていない日本においてはほとんど意味をなさない。やるだけ無駄である。
しかし、だからと言ってサイコパスには責任能力がないので無罪にしようというわけにもいかないのが現実である。
考えても見て欲しい、何かトラブルやストレスがあったとしてあなたはどうするか。
例え衝動的であろうとも相手を殺そうと思い、ましてやそれを実行してしまうのは普通ではない。
こういった判断能力に障害のある人間を無罪にしていては恐らくほとんどの殺人事件は無罪になってしまうだろう。
いくら責任能力がないからと言って日常的に人を殺したいと考えている人間を放置するわけにはいかないのである。非人道的であろうがなんだろうがそれが分かり次第、隔離すべきである。
ここに司法の難しさがある。
ただ理解してほしい。人を殺して平然としている犯人、まったく反省していない犯人。彼らは決してそうなりたくしてなったわけではないのである。
足がなくて走れない人と同じように彼らは反省することや他人の気持ちになって考えることが出来ない障害を持っているのである。
だから彼らを許せとは言わない。
だが頭の片隅にはおいておいてほしい。彼らも障害者なのだと。