コラム

死ぬ権利がほしい

今週のお題「理想の老後」

 

私は今から4年前、不安障害を発症したことがある。

 

現在は服用も止め、完治しているが、完治までには2年の歳月を要した。

 

発症のきっかけとなったのは胆嚢摘出術後の経鼻チューブが辛すぎたことが原因だった。

 

 

 

全身麻酔を施すと胃や腸を動かす運動、蠕動運動が停止してしまう。

 

これは麻酔から覚め、しばらくすれば回復するのだが、その間、胃に胃酸が溜まって吐いてしまうことなどがる。

そうなるとそれをきっかけに誤嚥性肺炎などを起こしてしまう危険性があるため、全身麻酔後は24時間経鼻チューブで胃の内容物を外に出さなければならない。

その経鼻チューブをした24時間が本当に地獄であった。

 

私も初めての全身麻酔ということで手術が決まってからというもの、全身麻酔について調べまくった。

 

昔であれば親戚などで手術経験がある人が頼りになるのだろうが今はネットで検索すればこのように手術経験のある人のブログがたくさん出てくる。

 

「こんなことが大変だった」

「こんなことがあって困った」

「今はこうだから心配する必要はない」

 

などなどいろいろなブログを読み漁っては不安になったり安心したりしていた。

 

その中で私のように経鼻チューブが辛かった言ってる人はいなかったので私は相当のレアケースだったのだろう。

 

具体的に何が辛かったかというと喉を通るチューブの異物感からくる嘔吐反射である。

喉には常にチューブが通っている。体はそれを吐き出そうと必死に反応するのだが胃の内容物は何もないのでいくら吐こうとしても何も出てこない。だがチューブは残ったままなので嘔吐反射は止まらない。

 

この嘔吐反射は歯医者などでミラーを奥まで突っ込まれた時や気持ち悪いものを見たり聞いたりしたときに来るおえっという半端なものではない。

異物を全力で吐き出そうとする本気のものだ。

実際には嘔吐していないので嘔吐反射という言葉を使ったが、嘔吐しなかったのは吐き出すものがなかっただけで、内容物があれば確実に吐き出していた。

 

空咳ならぬ空嘔吐といったところか。

 

 

そんな空嘔吐を1時間おきくらいの感覚で繰り返していた。

 

何度鼻のチューブを引き抜こうと思ったことか。

だが引き抜いたら今よりさらに悪い状況になってまた鼻にチューブを、今度は意識があるままに入れられるのかと考えると怖くてそれもできなかった。

 

そんなこんな朝の回診までゲーゲーと空嘔吐を繰り返したのである。

 

回診の時は吐いても何もしてもいいからとにかくチューブを抜いてくれと先生にお願いした。

 

チューブが抜かれるときの感覚は今でもはっきりと覚えている。

それほどの解放感と快感があった。

 

チューブが抜かれてからというもの、気持ちは天にも昇る気分であった。

 

腹を切ったわけなので当然痛みもあり、歩くのはしんどいのだが、あの苦しみに比べればと思うとフロアを何周歩いても苦にならなかった。

 

だがそんな天にも昇る気分は2時間程度で終了することとなる。

 

ふと考えてしまったのだ。

 

それは何年後かわからない。自分の晩年である。

 

胆石は死ぬ病ではないが人間はいつか死に至る。

 

その時自分はどのような最期を遂げるのかと。

どれくらい痛いのか、苦しむのか、それはどれくらい続くのか。

今回はたった一晩だった。

死ぬときはこの苦しみがずっと続くのか。と。

 

そう考えたとき、私の心は恐怖によって埋め尽くされてしまった。

 

今感情を言葉で表現するのは難しいがあれこれ考える心の領域に決壊したダムの水の如きなだれ込んでくるのだ。

もうそのことしか考えられない。

 

こうして私は1週間「死」が頭から離れない状態となり、仕事はおろか、食事すらとれない状態となった。

幸い、心療内科で投薬を開始してからは日常生活が送れるレベルにはすぐに回復し、大きな問題にはならなかったのだが、薬が必要になくなるまではおよそ2年の歳月を要した。

 

今は普通に生活をしているわけだが今でも時々考える。

自分はどう死ぬのかと。

 

この経験は私の死生観を大きく変えることになった。

 

老後をどう過ごすか。それはおそらく誰もが抱える不安である。当然私も考えていた。

だがこの経験をしてから私は「どう老後を過ごすか」よりも「どう死ぬか」のほうが重要になった。

 

丈夫な足腰と潤沢な資産で何不自由なく老後を送ったところで苦しみに耐えて耐え抜く死んでいく晩年だけは迎えたくない。

 

もちろん贅沢を言えばいいものを食べて好きなことをし、動けなくなったら至れり尽くせりの老人ホームで余生を送りたいが何よりもピンピンコロリ願望が強くなった。

 

そして最期は眠るように苦しまずに逝きたい。

 

幸い日本は豊かな国である。2000万円問題を代表するように多くの人が老後のお金に不安を持っているが、日本が経済破綻でもしない限り、飢えに苦しむこともなければ道端で野垂れ死ぬこともないのだ。

 

我々には「生きる権利」があり、資産の有無にかかわらず「最低限文化的な生活を営む権利」も有する。

仮に借金まみれで自己破産し、1円の貯金がなくとも傍目には一般人と変わらない老後が送れると私は思っている。

 

だがそんな人権が確立された日本であっても我々は「死ぬ権利」を有さないのである。

 

いきたくないと思っても自殺は許されない。見えるところで行えば止めなかった人が罪に問われる可能性がある。

自らの命を絶とうと思えば人目をはばかんでひっそりとおこなわなければならない。

 

私はALSという病気をこの世で一番恐れている。

手足の自由が利かなくなり、最終的には眼球すら動かせなくなり、人形のようになってしまう病気だ。

だが痛覚だけははっきりと残るため痛みは感じることができる、感じてしまう。

だが痛いと悲鳴を上げてもその悲鳴は誰にも届かない、誰にも気づいてもらえない。

 

そしてなによりそんな絶望に至っても自ら命を絶つことすら出来ないのだ。

 

私が万が一この病気を発症したら自殺をしようと決めている。

本当は意思疎通ができなくなるぎりぎりまで生きたいが、手足の自由が利かなくなり、呼吸筋まで麻痺が及んだ場合、人工呼吸器を装着しなければならない。

 

人工呼吸器は一度付けたら最後、誰にも止めることはできない。

もし止めてくれと言っても、止めた人間は自殺幇助だ。

 

絶望した人間にとって最後の希望は「死」である。

 

ALSはその最後の希望である「死」すら奪う。

 

そしてそれは司法もである。

 

 

法の力は死にたい人間を無理に生かすこともあるし、生きたい人間の命を奪うこともある。死刑制度がそうだ。

 

こう考えると命はいったい誰のものなのだろうか。

 

私の老後の願いは「穏やかな死」である。

 

そしてもし国が私に「死ぬ権利」を与えてくれれば限界まで精一杯生きることができる。

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